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2016年4月30日 杓子尾根行動記録 猿倉505から白馬尻740 飯綱高原を3時半に出発、5時前に猿倉に到着。ペラヤッケとマウンテンジャケットを入れ忘れた。リビングの棚の上に置いてあったのに。稜線は風が強うそうで不安だがここまで来てしまったら仕方がない。インナーグローブとフリースグローブで右の指を守って出発。(右手の人差し指と中指は血行が悪いらしくすぐに冷える。)ロバ氏は運動靴でおでかけ、雪の上をひょこひょこ歩いて行く。相変わらずお気楽で靴底がちびるのを嫌う変な人である。 3年ぶりに履いたハンワグはなかなか快適だ。98年のヨーロッパ、2000年のヒマラヤで相棒として活躍してくれたけれど、Domodossoraの山道具屋で購入した軽登山靴KーLandにその座を奪われてきた。山小屋では学生時代に買ったドロミテのマジョールが現役生活をしている。2012年原発ポンの日、湯涌温泉の高尾山で靴底がはがれた。14500円で張り替えてあげてから2回目の山行きだ。 長走沢の水量が多い。Sと来たときにはそんなことはなかったぞ。ロバ氏石伝いに渡ろうとするが、1つめの石で動きがおかしい、そのまま向こう岸に飛ぶがジャボン!あーあ!石の表面が凍っているそうな。シバ氏とうろうろする。水中の石は凍っていないはず。ストックで慎重に身体を支えて渡りきる。後から来た爺さんはさっさと渡っていった。ありゃあ何者だ?ロバさん靴を履き替える。ぬれた靴を担ぐのが嫌なら運動靴はデポして行きなさい。 気持ちの良い朝だ。昨日の悪天が嘘のようだ。このあたりは飯綱同様軽く雪が降っただけのようだけど、汚れた雪が白くなっていてとてもきれいだ。スノーブリッジを渡ってしばらく行くと、テントサイトが見えてきた。住人がようやく出てきていて、主稜方面へ出かけていった。 取り付きがわからない。爺さんがアイゼンを付けている。我々もテント場の先でスパッツとアイゼンを付け、ストックからピッケルに持ち替える。 1ピッチ(白馬尻750から吹きだまりの休憩地900) ロバ氏トップで歩き出すが、アイゼンの具合がいまいちらしい。付け直すという。先行させてもらうことにする。久しぶりの雪の斜面は感じがよくわからない。斜面が急に思えて仕方ないが、登ってみるとそうでもない。ひとつ斜面を登り切ると稜線につながるながい雪の斜面が見えた。爺さんが登っている。早いやん。ロバ氏トップでのたのた登っていく。吹きだまりのある場所でバケツを掘って休憩。標高は1800mくらいだろうか? 2ピッチ(吹きだまりの休憩地905からブッシュの休憩地955) 爺さんのトレースをたどることにする。笹のブッシュの中を行く。トレースは広い尾根を右に左へと登っていく。カンバのブッシュで苦戦、ストックがとれる。このストックとは頂上までご一緒することになる。 急な雪壁が見えるが、登ってみるとたいしたことはない。膝もなんとかもっている。大日方のコルが下に見えるころ、歩き出して1時間。ブッシュの中でバケツをつくって、2度目の休憩とする。時折、風が強い。白馬の頂上ははまだまだ高い。 3ピッチ(ブッシュの休憩地905から風下の休憩地1000) 風が強くなってきた。次の休憩でダウンを着るべきだろうか。稜線は狭くなり、ナイフリッジと言っても大げさでないかもしれない場所もある。雪はクラストしていて、踏み抜くとしみじみ苦しい。なるべくアイスバーンになっているところを選んで足を置く。時々潜る。しみじみ苦しい。ジャンクションピークに人が見える。風下になっている場所を見つけて休憩とする。シバ氏から雨具を借りる。ゼリーと暖かい紅茶がおいしい。天気は明らかに下り坂だ。 4ピッチ (風下の休憩地1005~ジャンクションピーク~頂上1140) ここからはロバ氏トップで登る。うーん、最後尾は楽だね。切れた稜線からジャンクションピークの急斜面を登る。吹きだまりがあって、人が通過するたびに崩れていく、ここは最後尾が不利だ。ブロックが積んである。しばらく行くと硬い雪壁に出会う。アイゼンの先しか入らないしピッケルはピックが有効である。左手首にストックをぶら下げて、げんこつでバランスを取る。雪壁の最後のトラバースを嫌ってロバ氏、斜面を登り切る、頂上につながるミックス壁が見える。いよいよ最後の登りだが、ステップを切るのに時間がかかる。最後のミックスはたいしたことはない、稜線に飛び出ると、風が強い。 下山1ピッチ・最低コルまで 頂上で写真を撮ってお茶を飲もうと誘うお気楽なロバさんに、低体温症になるから下ろうと、風のない場所があるらしい。風は強いけれど快適に下れる斜面。今回の山は終わった。膝痛に苦しんで9ヶ月。ようやく復活の足がかりができた。満足感で下りながら涙が出てきた。ロバ氏、シバ氏(この呼び方の違いは何なんだろう?)ありがとう。シバ氏はとっても疲れ。足下がややおぼつかない。左手のストックをお貸しする。 最低鞍部まで行けば強風ともお別れ。ところが斜面がよくわからないと、ロバ氏おっしゃる。稜線をたどって、白馬山荘方面へ行くという。この強風の中を?でも、下れないなら仕方ない(僕もちゃんと見れば良かった。ザイルを出して下ってみればよかったのだが)。なにしろ、体力には十分余裕があったのだ。暖かい紅茶を飲んで、登り始める。稜線の風はますます強く、地吹雪は暴風雪に変わってきた。 稜線の徘徊 最低コルへ戻る 風が弱まる気配はない。向かい風ではストックをついて前傾姿勢を取ると、身体が風圧で支えられる。追い風の時は手を広げると斜面の上方向へ押し上げられて楽だ。横方向から吹いているとき、身体は15°ほど傾いている。シバ氏の足取りは重い。時々立ち止まってしまう。がんばれ!杓子岳から3人組が下ってきた。最低コルから左手に下っていく。 もうすぐ登りが終わりという頃、夏道が雪で消えてしまった。大きな吹きだまりになっている。これを越すには、切れ落ちたトラバースをするしかない。西側も通れそうだが、暴風が厳しい。村田さんは前に進みたそうだったが、最低コルに戻ることを提案する。ルートを探している間に、シバ氏の身体が冷えてしまう。 暴風に耐えながらコルまで戻る。僕は左を偵察に。ロバ氏は右手からなら下れるという。バケツを掘ってザイルを出すが、ザックの底だ。いろんなものが出てくる。飛ばないように手で押さえつけるけど、ファイルが飛んでいった。「寒くて足が震える」とロバ氏。それは低体温症の始まりですよ。支点をす作るのはさすがにうまい。 下山2ピッチ目:最低コル1310から下山 ブーリンでザイルをつけ、下らせてもらう。5mも下ると傾斜は落ちて、左方向へ降りていく。十分傾斜が落ちた頃50mいっぱいになった。ザイルを引き上げシバ氏を下ろす。すぐにスリップしたけど、簡単に止まった。その後は後ろ向きで降りてくるけど、時間がかかるので前向きになってもらった。ロバ氏がすぐに降りてくる。ザイルをしまうというので、先に一般ルー上場の大岩めがけてトラバースを始める。どう考えても僕たちがいるのは雪崩斜面の下。分散していた方がよい。コルから見るとクレバスのように見えていたしわはデブリの跡だった。その上に新雪が乗っている。 登りのスキーヤー三人組が立ち止まっている。言葉は交わさずに下山を始める。ロバ氏とシバ氏は遅れてついてくる。水分と栄養の補給をしたいが、落石の心配、側壁からの雪崩の心配のないところまでがんばる。 安全地帯の休憩1410から白馬尻手前・白馬尻1510 チーズとようかん(年始に友人が持ってきたもの)と水を口の中に入れ下り始める。傾斜は落ちて、ただただ足がだるい。風も弱まりのんびり下っていく。白馬尻が遙か下に見える。それでも1時間くらいでつくだろう。標高が下がってもまだ細かい雪が降っている。気温が上がってきて暑くなってきた。借り物の雨具に汗をつけたら申し訳ない。脱いで丁寧にたたんでザックに入れる。 下るにつれて雪は細かい雨に変わってきた。着ているものが良いので身体は濡れない。大雪渓は冬景色で熱燗が似合いそう。間違っても生ビールではない。 白馬尻1510から猿倉1610 白馬尻でアイゼンを外す。ピッケルをなおしストックに替える。夕食の話をする。寿司と刺身と肉を焼く。テントの中に人がいるのにたちの悪い話である。山小屋バンザイ! シバ氏はだいぶ参っている。長走沢でスパッツのまま徒渉をする。スパッツをはずし猿倉へ向かう。 猿倉1630から飯綱高原1930へ 八方の湯は混んでいた。右手中指が凍傷になっている。車の中では皆起きていた。車にデポされていたお茶をありがたくいただく。スーパーで大量のそうざい、寿司、さしみを買い、山小屋へ戻る。元気はないけど宴会だ。 後日談と反省 パッキングは前日に行った。なぜ、そのときにペラヤッケとノースフェースのジャケットを入れなかったのか?不思議で仕方ない。皆さんが雨具を持っていてくれて助かった。今回は徹底的に軽量化をはかった。食料も最小限にした。ロバ氏のザックをみてびっくり。いろんなものが入っている。それであれだけ行動できるのだから立派なものだ。 ペラヤッケを最初から着ていれば、そして最後の登りでノースフェースに替えていれば、快適なクライミングになったに違いない。目出し帽は大正解だった。今回のような気温ならばもっと厚いものでもよかった。 食べた食料はようかん2個(○)、チーズ1本(△)、アミノバイタル1本(○)、ウイダーインゼリー1本(○)、チョコレート2個(ロバ氏から)、レーズンサンド2枚(ロバ氏から)ヴァーム500(○)水500弱、紅茶500(3人でシェア)だった。気温が低かったので水分の摂取量は少なかったが、山中でのトイレは2回。風呂でもトイレに行かず、小屋での回数も少なかった。脱水の危険はあった。 朝食は冷凍チャーハンを3人でシェア、目玉焼き、カレースープ少量、紅茶だった。十分に栄養と水分はとれたと思うが、ヨーグルトを食べておけばよかった。 ポットの紅茶は大正解だった。砂糖を入れておけば良かった。 手袋の替えは必要だと思う。凍傷はひどくはないがキーボードを打つたびにその存在がわかる。いつになったら症状は改善するのだろうか。 帰宅後、ストレッチをする気力も時間もないまま寝てしまった。眠りは浅く、神経が興奮したままであった。眠りについて1時間20分後に右足の四頭筋足がつった。翌日、朝風呂に入りストレッチをした。身体はそれなりに反応してくれて、筋肉は一時的にしなやかになったが、車の中で元に戻ってしまった。コスパで入浴後にストレッチをしたが、市中ウオーキング・ジャグジーも効果があると思う。しかし、頭がぼけていて、水着どころがTシャツの替えもわすれてしまい、満足なトレーニングができなかった。 それにしても稜線の風はすさまじかった。自分の身を守れる自信はあったが、他人の助けをするのは難しいと思う。この日は立山や穂高で多くの遭難者が出たわけだが、山で必要な力・装備・判断力を考えさせられた。 前日からの気象条件と天気予報を考えると、あと30分早く出る必要があったのかもしれない。もっとも、最低コルについたときにはまだまだ、体力的にも気象的にも余裕があったわけだが。直接、最低コルから下山していたら今回の山行きのイメージは「さくっ!」だったと思う。しかし、強風に身をさらして恐怖を感じることができたのは良かったと思う。しかし、あのまま白馬方面に突っ込んでいったらヤバかったかもしれない。 体力の衰えは行く前から感じていた。膝が痛くなってから9ヶ月。今までのようなトレーニングができないまま、なすすべもなく体力が落ちていった。今までのような、「体力で山をねじ伏せる」ような下品な山登りはできないだろうと思っていた。しかし、体力が落ちた分、バランスなどは以前よりも良くなり、力を使わずに雪の斜面をこなすことができるようになっていた。今回はピッケルではなくマザーのバイルにしたわけだが、石附が雪面に刺さらない分、力を使わない。バランスでリッジを通過することになった。良い練習だった。 今日の飯綱高原はとても天気がよい。しかし、風は強い。3日前の今頃、暴風雪に身をさらしていたとは思えないような快適な生活。しかし、身体にはその余韻が残っている。一緒に登ってくれた仲間に感謝。 2016年5月3日 飯綱高原にて #
by nabenan
| 2017-04-16 16:07
はじめに とても長い長い山行きだった。たった43時間しか山にいなかったのに、一週間も二週間ももしかしたら一ヶ月もいたような気がする。ふと思いついたこの計画は、来年予定している、ヨーロッパ行きへの不安から出てきたものに違いない。OBT隊長からのオファーは2001年に果たせなかった、モンテローザの縦走。4000m以上の高度に24時間以上滞在し、Ⅲ級の岩場を登り主峰に達し、ツェルマットに向けて長い長い下降をする。岩登りの下手な僕としては、せめて体力だけは他のメンバーより上回り、余裕をもったクライミングをしたいと思ったのだ。 今回は体力作りだけではなく「飲む・寝る・食う・出す」山の基本的な技術の再構築も目標とした。今まで、僕は体力まかせの傲慢で下品な山登りをしてきた。しかし、年相応に体力が落ちてきた。基本的な山の技術「飲む・寝る・食う・出す」を見直すことで、落ちた体力をカバーしようと考えた。 結論を書いてしまうと、残念ながらこの目的は達することはできなかった。結局、最後には体力にモノを言わせた傲慢で下品な山登りになってしまった。その判断は読者にお任せしたいと思う。 43時間弱の行動のうち、18時間は暗闇の中だった。夜間行動には自信がついた。その反面、ビバークの技術には足りないものを感じた。これからの課題だろう。 行動の報告は客観的に書くように努めた。幻覚に関しては言葉にできないモノもあった。なるべく近い表現をするようにした。資料としてタイムテーブルと登山地図の標準時間、この文を書くためのメモ、食料・装備のリスト、長野県警にメールで送った登山計画書をつけた。参考にして下さい。 目標 室堂から上高地まで48時間で抜ける。これは高体連合宿バスの、室堂到着が15時頃であること。上高地発長野行きのバスが15時30分発車することから考えた目標である。 タクティクスとその結果 72時間ならば問題なく上高地に到着できる。この場合は軽量化もそんなに考える必要はなく、テントの携帯も可能。あえて、48時間にすることでツエルトでビバークすることにした。ツエルトは重たいので、フライシートにするか悩んだ。ツエルトを選んだ結果、張り綱を忘れたので、「寝ない!」ことになった。これが、予定より早い到着につながった。 登山地図の総所要時間は約40時間(まず最初に計算間違いをしている、正確には41時間)標準コースタイムよりも少し速く歩いて、食事・休憩等の時間を確保。残りの8時間を、睡眠、上高地での入浴に当てる。睡眠時間は一晩3時間とした。本文を読んでいただければおわかりいただけるが、一夜目は45分間だけ仮眠をとった。二夜目は槍沢の下りで、石に座って最低十数分の仮眠を4回とった。 生まれて初めて軽量化のことを考えた。服を秤に乗せて、軽い物を選んだ。ボンベは中型にするか小型にするか(130gの差がある)半月悩んだ。中型を選んだのは失敗、小型にするべきだった。 ザックは中型(40㍑)にするか大型(70㍑)にするか悩んだが、パッキングに必要とされる時間を短縮するために大型にした。これは正解だった。 行動中の山小屋での補給はしないことにした。しかし、黒部五郎小屋でリンゴ1個300円で購入。たぶん、これが僕の命を救い、上高地まで歩かしてくれた。食糧計画の失敗である。簡単な調理ですらめんどうになり、ひたすら歩き続けた。少し重くなるが、テルモスを持って行けば良かった。お湯さえ入れておけば、簡単に食事できる食料を持っていたのだ。また、夜は冷えるので温かい飲み物があれば、疲労を少なくすることができたかもしれない。 出発 14時34分室堂バスターミナル出発。天候は回復傾向にあるが、五色まではガスの中だった。休憩はとらず、1時間おきにます寿司とチータラをほうばる。18時半五色ヶ原キャンプ場に到着。 時間がもったいないのでアロファ米ではなく、雑炊をつくる。気温の低下に備えて、長袖シャツとウインドブレーカー、タイツを身につける。ガスが晴れて、薬師岳と槍ヶ岳が見える。目測では薬師岳まで8時間、槍ヶ岳まで24時間で到着予定。 暗闇 19時五色ヶ原出発。まだ、デコランは必要ない。五色小屋をそっと通り過ぎる。水をもらえる状況ではなさそうだ。キャンプ場に寄って正解だった。ガスが濃くなる。木道をひたすら歩く。19時半ついにデコランが必要になった。周りは真っ暗だ。小屋の灯りが見えるうちはよかったが、灯りが見えなくなると、圧倒的な孤独感がおそってきた。暗闇が怖い。明るくなるまでどのくらいの時間がかかるのだろう。 越中沢岳の頂上で脚の疲れを感じる。内転筋がつりそうだ。歩き始めて7時間。本来ならば行動終了しても良い時間だ。ストレッチとマッサージ。 今回の山行でつりそうな部分を優しくマッサージすると、効果があることが理解できた。これは整骨院ファーストの芝さんから教わった。ここまでの登山道には赤色のペンキ印が丁寧についていた。印を踏むようにルートを選べば良かった。越中沢岳以降は白の丸印がついていた。歩いて行く方向を示すもので、ルートを探す感覚を変えなければならなかった。所々にビバークサイトはあったが、西風が当たるところが多く、ビバークする気にはなれなかった。スゴ乗越はビバークに適していた。 ここから先の下りは本当に悪かった。巨大な岩を虎ロープを頼りに降りる。ズゴの頭からスゴ乗越へ下りも同様に悪かった。神経と身体ををすり減らす下降だった。だんだんデコランのパワーが落ちてくる。そういえば購入以来一度も電池を替えていない。樹林帯の中の行動は暗闇の恐怖と孤独感を増幅させる。 0時を過ぎた。スゴのキャンプ場にはまだ着かない。さすがに眠くなってきた。0時30分キャンプ場到着。テントが張ってある。人がいる。ほっとする。コンタクトを外し、緑内障の点眼をする。ここまで10時間かかっている。 近くのテントに迷惑をかけないよう、静かに荷物を出す。銀マットをしき、ツエルトを出す。張り綱がない。フリースを着て、雨具の上下を着込み、靴を脱いでシュラフカバーに潜り込み、ツエルトを身体に巻きける。冷たい風が顔をなでるたびに目が覚める。星がきれいに見える。明日?は晴れそうだ。 45分ほどうつらうつらしおただろうか。寝るのをあきらめて、先に進むことにする。暖かい紅茶を飲み、デコランの電池を替えて出発。 カサをもっているのだから、顔付近においておけば、そよ風程度は防げたはずだ。疲労のためか上高地までカサの存在を忘れている。装備・食料リストは頭の中にいれとけよ。 スゴ乗越小屋は携帯トイレをつかうしくみになっていて、小用しかたせなかった。水は小屋の前で提供されていたので、3リットルの水を担ぐ。 長い長い登りが始まる。再び孤独感が押し寄せてくる。五色で見たとおり薬師岳は大きな山塊だった。いつまでたっても北薬師岳に着かない。身体が思うように動かない。息切れが激しい。こんな計画を立てたことを後悔する。 3時過ぎ遠くの空が明るくなってきた。細い月も見える。孤独感が解消されてきた。ルートはガレ場にとられている。バランスをうまく取ることができず、スピードがさらに落ちる。 北薬師岳に近づいた頃完全に明るくなった。風の当たらないところで食事を作る。眼がちゃんと見えていない。水をアロファ米の袋に大量に入れてしまい、薄味の雑炊になってしまった。とっても不味い。それでも腹に何か入ると身体が楽になる。薬師岳到着5時50分。スマホで写真を撮る。M田さんにメール。 薬師小屋までの下りは快適だったが、太郎のキャンプ場へ下る沢は最悪だ。スピードが出ない。折立へエスケープすることを本気で考える。7時37分キャンプ場到着。 行動前に地図の中身を頭にたたき込んでおけば、無駄な焦りや希望を持つことはないはずだ。それができていない。 昼の行動 太郎から双六へ 薬師沢キャンプ場は明るい太陽に照らされていた。下り疲れた足を休めるために、銀マットを引いて、靴を脱ぎストレッチする。コンタクトをつける。もう、折立へエスケープすることは考えていない。脚を前に進めるのだ。まだ、時間はある。木道をひたすら歩く。30年前と変わらない景色。しかし、もともと登山道であったところは雨水に削られ沢のようになっていた。オーバーユースの恐ろしさである。 北ノ俣岳を過ぎたあたりから、右足と左足が人格を持ち始めた。僕は彼らの痛みの訴えに応じるため靴を脱ぎ、マッサージをする。「何か食べなくてもイイの?」「うん。飲み物だけでイイ」「そうか、じゃあ歩こう」勝手に誰かが会話している。僕は先に進む。 すでに幻覚が出始めている、。自分の身体が他人事になっている。どうだっていいやという気持ちではない、考えられないのだ。その半面、山ついては冷静に考え、着実に前に進んでいる。 脚が痛くなるたびに、彼ら(右足と左足)の求めに応じて靴を脱ぎマッサージをする。 黒部五郎の登りは辛かったが、足を止めないようにひたすら登った。黒部五郎カール下降口13時27分。カールの向こう側に赤い小屋が見える。遠い。 カール内の道にはペンキ印が付いていた。「三角飛びをしろ」誰かが命令する。道上に着きだした岩の頭をたどっていくと、楽に早く移動できるのだ。僕は命令に従ってペースを上げる。 この声に関しては、カールを移動中に幻覚だと気づいた。幻覚が始ま っていると始めて認識した。これ以降幻覚に注意を払うようになった。 五郎小屋は小屋の前で飲料水と提供してくれていた。ありがたく補給させていただく。リンゴが冷やしてある。300円。食欲がわく。これを食えば槍を超えることができる気がした。美味い!こんなおいしいフジリンゴは食べたことがない。 15時15分双六に向けて急坂を上り始める。この時間になっても登山者が降りてくる。口の中にリンゴのうまみが残っている。妻が「あのリンゴ美味しかったね」と言う。気がつく!リンゴを食べたのは妻ではなく僕なのだ。僕の身体が味わったのだ。自分の身体が自分のものではない感覚はこれからも続く。幻覚がひどくなっている。登りは快調である。19時までに双六に到着することを確信。今日中に槍を超えることにする。 妻との会話が幻覚であることに気づくのにだいぶ時間がかかってる。幻覚がさらにひどくなってきている。 急坂を登りきったところで、トレラン風のアンちゃんに先を譲る。彼の姿を見ている間は幻覚が現れてこない。代わりに足の痛みがひどくなる。何度も靴を脱ぐ。双六への「中道」は思ったより長かった。双六小屋の水源で水を補給。これで上高地まで行ける。樅沢岳の登りを観察してしながら歩く。天気は安定している。今日中に槍を超える決意をする。幻覚に負けないようにしよう。 人の姿を見ている限り幻覚は現れないようだ。 西鎌尾根 双六山荘が見えたのは6時半を過ぎた頃だった。夕闇が迫ってきている。下から僕を見上げている人は「こんな時間に到着するど素人め」と思っているだろう。僕だったらそう思う。 6時40分小屋前の椅子にたどり着く。残念ながら、軽食の営業は終わっていた。栄養を補給しないと、また身体が動かなくなってしまう。食料袋の中に、ドライフルーツがあった。パイナップルをむさぼり食う。 10分後、奇異な眼を意識しながら暗闇迫る樅沢岳を登り始める。ゆっくりゆっくり一歩一歩確実に。僕はベテランの山屋だ。歩き方を見ろ、君たちとは違う。 頂上間近で暗くなった。足下が見にくい。頂上でデコランを出す。電池の残量が不安だ。後1回分の代え電池はあるが、それをつかってしまうのは不安だ。エコモードとハイパワーを使い分けることにする。 いよいよ西鎌に入る。記憶と違って普通の道が続く。昨夜の稜線と比べて易しい。コンタクトを外す時間が近づいている。もう、12時間もつけている。ザラカムも点眼しなければ。「コンタクトを外す時間よ、ポーチを取り出してあげようか?ザラカム(緑内障の薬)を点眼する時間よ。」僕は一人なのに、優しい声がする。幻覚がやってきた。背筋がぞくぞくする。死にたくない。ザックからポーチを取り出す。自分が取り出しているのに、誰かが取り出してくれたように思える。めがねに変える。気温が低いので汗がめがねについて視界を奪われることはない。 稜線が狭くなってきた。右が切れ落ちてきたら、「右や右のストックに気をつけろ、左のストックに頼れ!」大声を出す。時々、道がわかりにくくなる、ここは経験が頼り。一度も間違えることはなかった。小さく槍岳山荘の光が見える、遠い。小屋から僕のライトは見えているのだろうか。僕は樹林の中を歩いている。違うよ、そこは稜線から外れたところ、脚を踏み出したら滑落。死ぬなよ死ぬなよ、「俺らは立場上事故は起こされへん。何言われるかわからへん」こんなところで事故したら帰られへん。この稜線は標準所要時間3時間。早く抜けることを期待して、易しいところではペースを上げる。なるべく早く抜けたい、最後のガレ場に入ればルートはわかりやすくなるはず。 機械的に脚を前に出していると、幻覚達にかこまれて周りが賑やかになる。昨夜の孤独感はない。「僕は一人や、単独行や、誰も助けてくれない、立場上事故は起こせない。幻覚野郎どこかに行け。」「うるさい!お節介するな!」大声を出して歩く。しかし、しばらくすると幻覚達に取り囲まれている。「人集めしましょうか?スタッフはいりませんか?」明確な言葉が幻覚達から発せられるわけではないけど、このような内容だ。 再び僕は大声を出す。僕は一人や!単独行や!誰も助けてくれないんや!事故は起こせない!今これを書いていて、涙が出てしまう。それほど厳しい状況だった。 いつまでたっても稜線は終わらない。ルートにペンキ印がない。踏み跡をたどるだけ、踏み跡をたどる意味が分からない。時々。覚醒する。この道はルートだ、家に帰るために僕は歩いている。 槍岳山荘の灯りが高く見えなければならないのに、まだまだ遠くにある。「槍」のペンキ印を見つける。僕は間違った尾根を歩いているわけではない。このまま進めばいつか着く。数多くの人が歩いているはずなのに、道は不明瞭になったり、落ちたらヤバイ所もある。慎重に判断しながら進む。時間の感覚はない。時折時計を見る。だいたい、30分くらいたっている。登りが息苦しい。あえぎながら脚を進める。鎖場が出てくる。千状乗越はまだか。ようやく千状乗越に到着。標準所要時間以上かかっている。 お待ちかねの最後の登り、標高差400m。余りに苦しい。槍岳小屋の灯りが揺れる。僕を見てくれている人はいるのだろうか。きっといる。消灯の時間だ。今まで明るかった灯りが非常灯になり、それも消えた。 「がんばれがんばれ俺、書類つくってやるからな」「俺らも歩いたるわ、なんかの足しになるやろ」ならへんねん。自分が歩かな着かへんねん。時々、覚醒する。再び僕は大声を出す。「僕は一人や!単独行や!誰も助けてくれないんや!事故は起こされへん!」でもしばらくすると幻覚に取り囲まれている。時々覚醒する。 脚が前に出ない。息苦しい。脚を止めないようにしよう。1歩1歩が短くても。動き続けている限りいずれ到着するはずや。息を吐くたびにうなり声、うめき声が出る。気がつけばのどに痛みがある。止まってはいけない。座り込んだら寝てしまう。永遠の眠りが怖い。幻覚達は周りにいる。励ましてくれる。時々、覚醒する。再び僕は大声を出す。「僕は一人や!単独行や!誰も助けてくれないんや!事故は起こされへん!」幻覚に取り囲まれている。時々覚醒する。小石に名前が書いてある。岩の模様が文字に見える。 白く大きなペンキ印だけをたよりに機械的に登り続けて、どのくらい時間がたっただろうか。脚に力が入らない。腕に命令をする、身体を支えろ。二本の腕も人格をもってしまった。ふと上を見上げる。四角い箱。あれが山荘か。きっともうすぐ。 急に道が平らになる。広場がある。右手に山荘。人がいる。「ご苦労様でした」幻覚君ではない。本物の人だ。8月4日0時4分槍の肩に到着。もう、登らなくてもいい。水分を供給しなければ。まだまだ感覚は人ごと。自動販売機の場所を若者君に聞く。小屋の中に案内してもらう。電気は消えていた。高山病気味の若者君にいつものアドバイスをする「身体を冷やさない。暖かい紅茶を飲んでおしっこ出す。紅茶には利尿作用があるからね。激しい動きはしてはいけないよ。深くゆっくりした呼吸を心がけること。」寒いので下山にとりかかる。0時15分 槍沢の下り 人と話し幻覚が消えたためか、脚の痛みが戻ってきた。とても辛い、スピードが出ない。デコランが暗くなってきた。(電池は約9時間使用できた)捨てずに残してあった古い電池に替える。 殺生キャンプ場の近くで紅茶をつくる。身体は暖まらない。靴を脱ぎマッサージをする。 下山開始から1時間もたっている。白いペンキ印をたどりながら下る。ルートを外したら戻る力はきっとない。慎重にルートを見極める。 落石の危険がない所を冷静に選び、石の上に座り込む。ライトを消し、目をつむるとすぐに夢が現れてくる。数分目をつむった後歩き始める。脚の痛みは消えている。幻覚が現れ始める。暗闇の中から現れてくる道はベルトコンベアーだ。ひたすら、その上に乗っていく。違う!下っているんだ。ゴール目指して。いつまでたっても樹林が現れてこない。 岩に絵が描かれてある。細い黒ペンで描かれているようだ。やせ細った身体に背中から大きな羽が生えている、気持ちの悪い絵。黄色の石にはマリア様の顔が描かれている。さらに下ると、苔むして枯れて倒れた木を使って、死体の模型が置かれている。枯れて白くなった枝が、指先の骨を表している。ひどいいたずらをする奴らがいるもんだ。いたずらではなく黒魔術か?上高地に着いたら公園事務所に届けてやろうと考える。 今考えてみると、通常殺生小屋から2時間半のコースに3時間45分 もかかっている。数分目をつむっていたような気がしているだけで、少なくと十数分眠り込んでいたようだ。記憶では座り込んだのは4回。眠り込んだ時間を差し引くと、ほぼコースタイム通りとなる。夜明けまで古い電池が持ったことから考えても、眠り込んでいたと思う。坊主岩小屋下の標識地点は平らでビバークできたが、そのような考えは浮かばなかった。 それにしても長い道のりだった。登山者の灯りが見える。周りが明るくなってきた。「早い下山ですね、どちらで宿泊ですか?」「2日午後2時半に室堂を出発して、今ここを歩いています。38時間でここまで来ました。」「写真撮らしてもらえますか?」「鉄人だ!」「はいはい、おじさん達も一緒にね。」「俺はこんなことできねえよ。」彼らとの会話と賞賛で眼がさめた。もうすぐゴールだ。 槍沢ロッジ到着5時。周りは明るくなっている。トイレに行き、レーズンを食べる。上高地で温泉に入るため、荷物を整理する。靴を脱ぎマッサージ。 5時15分出発。今日は日曜日だ、混雑する上高地から脱出するために早く着きたい。ペースが上がる、しかし横尾は遠い。横尾の手前でツアー登山の大集団と出会う。最後尾のツアーリーダーはT先生だった。「本当に室堂から歩いてきたの?」「はい、ここまで40時間くらいです。幻覚に悩まされてます。」「本当にすごいな。」(めったに人をほめることのない人に誉められられた。)「俺は幻覚やないで。また、どこかで縁があったらあいましょう。」 横尾でCCレモン250円、脚のマッサージ。徳沢でグレープフルーツジュース200円、脚のマッサージ。明神はスルーして上高地を目指す。雨が降り始めるがひたすら脚の痛みに耐えて歩き続ける。とても遠い。集中力はまったくない。対向者とぶつかりかけたりつまずいたり。河童橋だ、何の感激もない。ホテルアルペンが見えた。終わった。 謝辞 応援してくれた高体連の仲間へ アルペンラインのお姉さん サランラップありがとう。ます寿司が五色までの燃料でした 槍山荘で感激してくれた若者君 君の感激が下りパワーになりました 槍沢ロッジ手前でヒーロー扱いしてくれた、お姉さんとその仲間達 写真を撮ってくれた、鉄人と呼んでくれた。この後幻覚君は現れなくなった。現 実の世界に戻ってこれた。脚の痛みも戻ってきたけどね。 横尾手前で出会ったY先生 バスのキャンセルを喜んでくれた、高速バス予約センターのお姉さん 幻覚の皆さん 西鎌尾根は賑やかな山登りになりましたね。 生身の人との会話が僕を現実に引き戻してくれました。 大げさかもしれませんが、皆さんの支えがなければ帰ってこれなかったかもしれません。感謝しています。 後日談 河童橋に到着した時に感激はありませんでした。とにかく、今ある不愉快な現象=臭い服・痛んでべとべとの身体をなんとかしたかった。アルペンホテルへ直行。温泉の手続きをしたけど、身体が言うことをきかない。何をしようとしてもぎごちない動きになる。ようやく服を脱ぎ、身体を洗う。湯につかり痛む身体をセルフマッサージ。 10時40分バスターミナル着。タクシーの乗り合いは廃止されたみたい。11時30分のバスを予約。レストランに入る。タンパク質を摂るために、トンカツ定食1300円、生ビール650円。食欲がわかない、はしをうまく使えない。しかし、生ビールはとても美味しかった。生涯ベスト3に入るほどうまかった。 新島々までのバス内で1時間、松本から長野までのJRで30分寝ただけ。次に睡魔が押し寄せてきたのは、21時30分だった。翌日6時半まで爆睡。 到着時の筋肉痛はとてもひどかった。特に左広背筋のピンポイント痛は5日の夕方になっても時折押し寄せてくる。肩も凝っている。しかし、脚の筋肉痛は翌日昼過ぎには解消した。身体はほぼ、普通の柔らかさに戻りつつある。これは、アミノバイタルを効率よく摂取したためだろうか?分岐鎖アミノ酸恐るべしである。分岐鎖アミノ酸は炭水化物・脂肪を燃やすときに必須らしく、足りなくなると筋肉を分解して供給されるという。 登山を終えて丸1日がたつ。何十日も山の中にいたような気がする。でも、山の中にいたのは、たったの43時間なのだ。 下山後48時間がたった。ヒマラヤで凍傷にかかった足指の感覚がない。軽くしびれている。肩こりがひどい。 8月7日には腹筋、腕立てなどの筋トレとランニングを始めることができた。ほぼ、リハビリは終わったようだ。 1週間後、僕はパリにいた。パリ滞在の6日間、ほとんど毎日走った。7年前と比べてスピードは遅くなったがランニングできる身体が戻ってきた。 あとがき 幻覚と戦っている記録はなるべく忠実に再現しようとしました。従って、繰り返しも多く読みづらくなっているかと思います。読み飛ばして下さい。 今回はピンポイントで天候に恵まれました。出発が1日早くても遅くても、上高地には行かなかったと思います。(行けなかったのではない。)双六の手前で天気がもつことを確信したからこそ、槍超えを決意したのです。西鎌尾根で悪天にさらされていたら、あの身体の状態で持ちこたえることはできなかったでしょう。 小さい頃いたずらをして親に怒られた「ごめんなさい、もう二度としません。」今はそんな気分です。 #
by nabenan
| 2015-07-11 20:17
今回は01年・05年の山行の報告です。 03年夏、ヨーロッパを熱波が襲いました。それ以降、ヨーロッパアルプスの氷河の状態が大きく変化したようです。05年の氷河の状態がどんなものであったかにも触れたいと思います。 1)アラリンホルン(4027.4m) *一般ルート(2005年) 7月31日、高度順応を兼ねてアラリンホルンに登りました。村田氏と大学で陸上部に所属している村田氏のお嬢さんが一緒です。 98年に登ったときはアラリンの山腹を巻くようにつけられていたルートは、年を追うごとにフェー氷河の中を通るようになりました。今年はさらに右に巻いていて、歩く距離が長くなりました。ただでさえ易しいのに、傾斜が緩くなった分、ますます右足と左足を交互に出し続ければ頂上に着いてしまう山になってしまいました。ただし、頂上直下の雪が溶けてしまって、最後の数十メートルはアイゼンでガレの上を歩かねばなりません。それだけの話なのですが、多くの登山者(たぶん素人さん)の動きが鈍くていつも混雑しています。 クレバスは雪に覆われていて見えないだけです。03年の夏には、表面の雪が溶けてしまい、いたる所にクレバスが顔を出しました。ルート上の休憩地であるフェーヨッホも実はクレバスだらけで、決して安全なところではないようです。休憩時にはザイルをはずさず、離れて休憩することをお勧めします。 記録 アラリンホルン ミッテルアラリンから一般ルート (05年 7月31日 村田実、村田綾子、渡辺) 時間:ミッテルアラリン9:25→フェーヨッホ11:10→11:57アラリンホルン頂上→13:45ミッテルアラリン *ホーラオプ稜(2001年) アラリンホルンの北東稜はホーラオプ稜と呼ばれています。01年にメトロの中間駅「ホーラオプ」から日帰りで登りました。中間駅を降りて雪のトンネルから外に出るとホーラオプ氷河の「わーお!」の世界が広がっていました。大きなクレバスもなく3500mのザッテルまで簡単に登りつき、穏やかな雪稜をたどり、核心の頂上直下の岩場を登り切ると、混雑している頂上に着きました。 頂上近くの稜線を登るパーティー 日帰りでホーラオプ稜を登るときの核心はメトロの中間駅で降ろしてもらうことです。ガイドをつれていない我々にメトロ駅員は「氷河通過の訓練を受けているのか?」と聞いていたのだろうと思われるのですが、「毎年、来てるんやから降ろしててえな、この顔に見覚えおまへんか?」とニコニコ笑って通してもらいました。 05年の夏にはザッテル直下に大きなベルクシュルントができていました。シュルントを左から巻くルートが付けられていましたが、明らかに難しくなっています。 記録 アラリンホルン ホーラオプ稜 (01年 8月1日 鈴木 西田 渡辺) 時間:ホーラオプ駅8:10→アラリンホルン頂上11:05/11:30→ミッテルアラリン駅13:00 2)ヴァイスミース(4023m) *ホー・ザースから往復(2005年) 8月1日、アラリンホルンに引き続いて日帰りでヴァイスミースに登りました。氷河の取り付き(3100m)は2003年までと様子が大きく変わっていました。ホー・ザース駅から続く林道の終点が取り付きで、今まではそこから白い氷河が始まっていました。ところが、今年は荒れたガレが露出しています。足下の不安定なガレを100mほど登ってからアイゼンを付けました。周りはクレバスだらけです。 クレバス帯の中で村田さん クレバスを避けて右へ左へと進路を変更する不安なトレースをたどり、今にも崩れそうなセラックに近づいて行きました。セラック帯に入ると、踏み抜いた跡が残るスノーブリッジ。不運な登山者がいつ崩落事故に遭うかわからないロシアンルーレットのようなルートになっていました。頂上直下も傾斜が強くなり、硬い氷が出ていました。 記録 バイスミース ホーサースから一般ルートを往復 (05年8月31日 村田、渡辺) 時間 ホー・ザース9:00→10:30 3600m台地→11:15 3800m台地→ヴァイスミース頂上12:00→13:30氷河取り付き→14:20ホー・ザース *アルマゲラーヒュッテからホー・ザース(2001年) 前日の昼前にザース・フェーを出発、ザース・アルマゲルからアルマゲラーヒュッテに入りました。絵に描いたような、ヨーロッパアルプスらしい美しい小屋でした。ここから眺めるアラリンホルンはとても迫力がありました。 翌日、暗い中をツービッシベルゲンパスへ。夜が明けて、ヴァイスミースの反対側にポルティエン・グラートの迫力あるナイフリッジを眺めることができました。パスでザイルを付け、急な雪の斜面を登りきったところで、左手の岩稜にでました。易しそうだったのでノーザイルで行動しました。Ⅰ級程度の快適な岩登りで、おまけにルート上には浮き石が全くと言っていいほどありません。しかし、ルートを1mはずれるだけで岩は不安定になります。岩稜が終わると高度感のある快適な雪稜になり、頂上に着きました。ホー・ザースへの下りに、セラック帯で雪のトンネルをくぐりました。クレバスも大きく開いていた。しかし、難しさを感じることはありませんでした。 記録 アルマゲラーヒュッテからヴァイスミース、ホー・ザースへ下山 (01年8月12日~13日 鈴木、渡辺) 時間 12日 ザース・フェー10:00→ザースアルマゲル11:00→アルマゲラーアルプ12:00/12:25→アルマゲラーヒュッテ14:00 13日 アルマゲラーヒュッテ4:40→氷河6:20→岩稜7:20→雪稜8:20→ヴァイスミース頂上8:40→氷河末端10:10→ホー・ザース10:30 3)不遇な3000m峰 *エッギナー(3366.6)(2005年) サース・フェーの村からは少なくとも8つの四千m峰を一度に見ることができます。あこがれの四千m峰です。ユーラシア大陸の東端にくっついている島国からはるばる山登りにやってきて、三千m峰を登るなんておバカなのかもしれません。相棒の村田氏は「おもしろいルートやったら少しぐらい低くてもエエヨ」と言ってくれます。そこで、前から気になっていたエッギナー南西稜を目指すことになりました。エッギナーはザース・フェーからよく目立つ岩山です。ゴンドラでフェルスキンまで上がる途中、その奇怪な姿を見ることができます。取り付きのエッギナーヨッホまで氷河を削った林道をたどって行きます。冬ならばリフトで上がればすぐなのですが、夏は不便なものです。ガチャ一式を付けて登り始めたのですが、ルートが不明瞭です。だいたいルート図を持ってきていない。今まででしたら前日までにドイツ語のガイドブックを翻訳して、しっかり下調べをしてから取り付いているのに、だんだんナメた山登りになっています。100mも登ると垂壁に阻まれてしまいました。あっちウロウロこっちウロウロしているうちに、敗退が決定。せめて頂上まで行こうと一般ルートに転進することになりました。 クラインアラリンホルンからプラッティエンへのハイキング道のほぼ中間地点に、ハイデフリードホフという気持ちの良い台地があります。そこから踏み跡をたどりました。この取り付きは何年も前から調べておいたので間違いありません。高度を上げるとガイドブックに書いてあったとおり、山腹の岩壁帯が近づいてきます。岩壁帯のルートは迷路のように複雑で、ケルンを積みながら登りました。岩壁帯を登り切るとガレが広がっていました。ケルンと踏み跡を探しながら稜線直下の岩壁帯へ登っていきます。ルンゼ状の岩場を登ると、足場の悪い泥状の斜面になりました。「村田さん悪いで。登れるけど下るの悪いですわ。ルートわかれへん。」「帰ろか。」またしても敗退。下りでもケルンを見逃し、山腹の岩稜帯を下るルートを探すのに大騒ぎしました。 南西稜は突っ込んでたらきっと登れたでしょう。しかし、下降路を無事通過できたかどうか?敗退しておいて良かったと思っています。 *シュテーリホルン(3436m)(2001年) ミッテルアラリンから東を見ると氷河を抱いた三角形のピークがあります。しぶる仲間を説き伏せて足馴らしで登ることにしました。バスでマットマルクダムへ向かい、ダムの右岸を歩いてガイドブックの記載どおり2332mポイントへ。ところが、踏み跡がない。ウロウロすること15分、もしかしてこの山に踏み跡はないのかな?仕方ないので斜面を北西方向へ登り始めました。2700mの草の台地を過ぎるとガレた斜面になりました。ガレのところどころに積んであるケルンをたよりにコルに登りつき、ザイルを付けました。残念ながら数日前に登ったパーティーのトレースが氷河についていて、完全に人気のない山登りにはならなかったのですが、スイスの山にはまだまだ人の入らない山があるのを知りました。山頂のケルンにはアルミの箱に納められたノートがありました。年間数パーティーの記録しかなく、当然、東洋人の名前はありませんでした。 シュテーリホルン全景 草地を行く、西田・鈴木。奥はアラリンホルン。左の雪稜がホーラオプ稜 記録 シュテーリホルン往復(01年7月31日 西田、鈴木、渡辺) マットマルクダム8:40→2332mポイント9:40→2719mポイント10:20→11:30シュテーリパス12:00→13:05シュテーリホルン頂上13:20→13:50シュテーリパス14:00→2719mポイント14:40→2332mポイント15:20→マットマルクダム15:45 4)ルートが不明瞭な高峰 *フレッチホルン(3984.5m)(2005年) ザース・フェーの村から南を見ると、左から尖ったフレッチホルン、中央に台形のラッギンホルン、右端に丸いヴァイスミースがそそり立っています。フレッチホルンは4000mに少しだけ足りない山です。他の二つの山は日帰りで登ることのできる山とされていますが、フレッチホルンだけは1泊2日が標準のようです。 イェーギホルンから見たフレッチホルン 快適なアパート暮らしになれてしまった、ダメ山屋の僕たちは日帰りでフレッチホルンを登ることにしました。7時45分ザース・フェー発のバスで出発。クロイツボーデンから登り始めたのが8時15分。最終のゴンドラが4時45分ですから、8時間半が持ち時間です。本来、宿泊すべきヴァイスミースヒュッテ出発が9時。先行パーティーと比べてほぼ4時間遅れと予想しました。左岸モレーンの縁を登り切ると、下部氷河への下りになります。泥とガレに覆われて少しも氷河らしくありません。そのくせ、クレバスだけは発達しているので実に始末が悪い。気温が低く何もかも凍りついています。なんと、氷河上に先行パーティーがいてるではありませんか。「なんやあ、もう追いついたで。楽勝、楽勝」とこらが、先行パーティー目指して氷河を歩いていたら、クレバス帯に入ってしまいました。他人についていくことなく、氷河を渡って右岸を歩くべきだったのです。クレバス帯を通り抜けると、ガレの急斜面になりました。雪渓には足跡があるのですが、それもガレの中に消えています。歩きにくいガレを適当に登り、上部氷河の末端近くで本来の踏み跡に出ました。 氷河末端(3200m)ザイルとアイゼンを付け、急な雪の斜面を50分登ると上部の雪原に着きました。雪原から上は風が強く、トレースが雪で埋まっていて、おまけに雪崩の跡もある。エビのしっぽも発達し、まるで日本の冬山です。高度に苦しめられながらフレッチホルンの頂上に着いたのは、予定よりも30分遅い1時25分でした。風が強くて寒い、おまけにゴンドラの門限があるので、写真を撮ってすぐに下山を始めました。下部氷河までは何の苦労もなく下山できたのですが、気温が上がり、ぬかるみだした氷河上のルートがわからずウロウロしている間に時間が迫ってきました。右岸モレーンのてっぺんに着いたときには、あと50分しか残っていません。モレーンの縁の不安定な踏み跡を走り、途中から谷に駆け下り、イェーギホルンのハイキング道にようやく入って、あとは痛む足を引きずりながらゴンドラ駅まで走り、16時35分ゴンドラ駅到着。ああ疲れた。 上部氷河末端で私。ここから下は急な雪壁となる 頂上にて。後ろはラッギンホルン 下部氷河。一面ガレに覆われているが一人前にクレバスがある。 記録 フレッチホルン (05年8月8日 村田・渡辺) クロイツボーデン8:15→ヴァイスミースヒュッテ9:00→上部氷河取り付き(3200m)11:00→朝食処12:00→13:25フレッチホルン頂上13:30→朝食処13:50→上部氷河取り付き14:30/14:50→ 右岸モレーン上部15:50→クロイツボーデン16:35 *ラッギンホルン(4010.1m)(2001年) ホ-・ザースまでゴンドラで登り、ラッギンホルン下部氷河めざして岩壁帯を左へトラバースします。よく冷えた朝で、沢の水が凍り何度かスリップしました。氷河にたどり着く前に、一部Ⅱ級と感じる岩場がありました。氷河を登り切るとラッギンホルン南陵に上がります。ここからは不明瞭な踏み跡をたどります。時々Ⅰ~Ⅱ程度の岩場が出てきましたが、ザイルを出すほどでもないし、出していたら時間切れで頂上まで着きそうにありません。ザッテル(3500m)の手前にⅡ級が続く快適な一枚岩がありました。ここから上はそれほど難しい登りもなく頂上に着きました。ザース谷から見るラッギンホルンは台形上の重量感あふれる山なのですが、台形の上を形成している稜線はナイフリッジで、縦走するのは少し手強そうです。 下りはホー・ザースへのトラバースを避けてクロイツボーデンまで下山しました。 記録 ラッギンホルン (01年8月15日 鈴木・渡辺) ホーサース8:20→氷河末端8:50→稜線の台地9:20→3500mコル10:30→11:30ラッギンホルン頂上11:50→13:20台地13:30→ヴァイスミースヒュッテ14:10→クロイツボーデン14:30 5)クレッターシュタイク *イェーギホルン(3206.3m)(2005年夏) 岩場にワイヤーや足場を設置したルートがあることは、現地で買った本やメーカーのカタログで知っていました。このルートをクレッターシュタイクと呼ぶということは、01年夏の観光案内を見て初めて知りました。イェーギホルンにルートが設置されたのです。その後、気にはなっていたのですが、登る機会がないままになっていました。 エッギナーの翌日はイタリア国境稜線へ岩登りに行くつもりでした。ところが朝起きてみると、今にも雨が降りそうな天気です。おまけにエッギナー敗退の影響で気分も乗りません。近場に活路を求めてイェーギホルンのクレッターシュタイクに出かけました。 ヴァイスミースヒュッテからイェーギホルンを見ると、天気が悪いにもかかわらず、ルートを登っているパーティーがいます。ルートはイェーギホルンの右手のピークを登りコル(3098m)に下降さらにイェーギホルン北東稜を登るように設定されています。 ほな、まあ行きまひょか、てなわけで、ヒュッテからほぼ水平にトラバースする道に入っていきました。岩壁の基部でハーネスをつけヘルメットをかぶります。どうせ大した事ないはず、ボ、ボ、僕らはアルパインクライマー。ナメた気分で村田氏はトレッキングシューズ、私はジョギングシューズです。ところが、いきなりⅡ~Ⅲ級の岩場が現れました。ジョギングシューズではスタンスに乗り切れない。あーあ、ワイヤーに頼ってしまう クライミングになってしまいました。直径10mmのワイヤーは頑丈な鉄くいでつながっています。セルフビレイの掛け替えが実に煩わしい。おまけにセルフのシュリンゲが短いと行動に支障が生じます。長すぎると、万一墜落したときに滑落距離が長くなるので怖い。あれこれ長さを試しながら登っていきます。おまけに、後続パーティがいるので、追いつかれては日本国民の恥です。 私 村田さん ルンゼ状が終わると快適なフェース、そしてハング帯にははしごがかかっています。ワンポイントⅤ級の高度感のあるトラバースが終わると、一度傾斜が緩くなりスラブ状になりました。ここまで登ると頂上が見え始めます。ピークの頂上直下のハング帯をはしごで通過し、頂上直下のテラスに出ました。ここまで標高差300mのルートを1時間半で登ったことになります。テラスでジョギングシューズからフィーレ(懐かしいでしょ?この名前!)に履き替え、コル目指して岩場を下ります。やっぱり、岩の岩登りはフラットソールやね。稜線上は岩場なのですが、少し南側に下るとやさしそうなガレ場です。お客さんを喜ばせるためでしょうか、ガレ場におろさずそのまま岩稜にワイヤーが張ってあります。コルはナイフリッジになっていて、北側をハンドトラバース、(もちろんワイヤーにぶら下がるのもアリ)。イェーギホルンの登りは易しい岩登りで15分ほどで頂上に着きました。 頂上からの下りは98年に歩いたときよりも道がよくなっていました。クレッターシュタイクが設置されて、多くの人が訪れるようになったからでしょう。 テラスにて。奥はイェーギホルン。一度コル下って登り直す。まだまだ気は抜けない。 記録 イェーギホルン(クレッターシュタイク)(05年8月6日 村田・渡辺) クロイツボーデン9:15→ヴァイスミースヒュッテ9:50→取り付き10:25→ピーク12:00→12:45イェーギホルン頂上13:00→クロイツボーデン14:25 *ミッタークホルン(3143m)(2005年夏) 村田家がザースを離れ、山の相棒がいなくなったので、僕たち夫婦は午前中スキーをして、昼からダラダラする生活を続けていました。再び悪天が訪れて山はますます白くなり、3000m以下まで雪が積もってしまいました。8月16日気温が高くなり、ゲレンデの雪が早めに軟らかくなってしまったので、午後からミッタークホルン北西稜のクレッターシュタイクへ行くことにしました。北西稜は98年に村田氏と登った思い出のルートです。頂上付近はまだかなり白かったので、アイゼンとピッケルは持っていくことにしました。 ゴンドラの第一セクション降り場のモレニアからクレッターシュタイクの表示に従ってガレ場を右手に登っていくと、手前の尾根にワイヤーが張ってありました。ここで身支度をし、新しく購入したクレッターシュタイク用のセルフビレイシステムを使用してみました。尾根の上に出ると美しい草地が広がっていて、ミシャベル連峰の眺めがすばらしい。 北西稜の下部はほとんどハイキングコースでワイヤーも張られていません。岩場が始まると、ワイヤーを掴むことのできない、Ⅱ級程度の岩登りになる場所がありました。スタンスに雪が付着しているので微妙なクライミングです。頂上直下のⅢ級2ピッチの岩場には雪が積もっていて、ワイヤーにたよって登るしかありませんでした。岩にアイゼンの跡が残っていたので、積雪期にも登る人もいるようです。 稜線上の岩場 最後の岩場。かつてはⅢ級2ピッチ。 かつて、ミッタークホルン下山路は不安定な踏み跡しかなかったのですが、このルートができたため、とても歩きやすくなっていました。45分ほどでプラティエンに下山。待ち合わせていた妻とレストランに入り、ビールで乾杯。今年の山登りが終わりました。 クレッターシュタイクは相棒がいなくても岩登りが楽しめます。友達が少ない僕にとってはありがたいシステムです。(もっとも、単独で登っている人はいませんでした。)イェーギホルンのルートは新たに開拓されたものですが、ミッタークホルンは昔からあったルートにワイヤーが張られたものです。僕は懐かしく思いながら登ったのですが、「ああ、こんな姿になってしまって・・・。」という思いも少しはあったのです。 記録 ミッタークホルン(クレッターシュタイク)(05年8月16日 渡辺) モレニア11:50→北西稜起点(スイス国旗が立っている)12:45→ミッタクホルン頂上14:15→プラティェン15:05 6)クレッターシュタイクについて 装備は最低ヘルメットとセルフビレイシステムが必要です。墜落距離が長くなって、シュリンゲやテープが切断するという事故が起きています。それを避けるためにはクレッターシュタイク専用のビレイシステムを使うと良いでしょう(現地で手に入ります)。メンバーの力量によっては10mのザイルを用意する必要があります。また、ワイヤーに頼らないと登れない人は手袋の着用が勧められています。 長時間、岩壁もしくは岩稜で行動するわけですから、体力・気力は岩屋同様のものが必要と思われます。技術的にはⅡ、Ⅲ級のルートを難なくリードする技術と経験があれば、大丈夫なのではないでしょうか。 セルフビレイの切断、落石などの事故以外に、墜落の巻き添えによる事故も起きているようです。少し注意すれば避けることのできる事故ですが、避け方がわからない方はこんなルートには近づかないことです。 #
by nabenan
| 2006-10-08 09:34
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